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(ゴンとはじめて言葉を交わしたその日、橙色に染まる坂道を広い背にしがみついて見ていた。)

 幼稚園のお楽しみ会は大事もなく幕を閉じ、あと片づけを終えたころには空が青さを手放していた。バスの時間を確認しようと停留所へむかうその直前。優しげな声がわたしを呼んだ。
「なに?」
 ゴン。背が高くて肩幅が広くて手のひらが大きい、少し頭の弱そうな男子。
「バイクあるんだ」
「、うん」
 バイク。そんなもの、駐車場にあっただろうか。辿る記憶には自動車の姿のみであった。ゴンが手招きする。わたしは上半身だけをひねっていた躯すべてを彼にむき、小走りで傍らへと寄った。
「免許持ってるんだ」
「うん」
 意外だった。彼には乗り物よりも徒歩が似あうように思ったから。絵本を読む姿が、のんびりと散歩する彼のかたちを連想させたのだ。
「あれ」
 ゴンの示した先を追うと、幼稚園の入り口に見覚えのあるものが立てかけられていた。薄汚れた赤いフレームが鈍くきらめく。
「……自転車じゃん」
「バイクだよ」
 いわゆるマウンテンバイクだった。
「免許持ってるって言ったじゃん」
「持ってるよ」
 ゴンは使い古された様子のリュックサックを前にまわすとそのくちを開いた。なかから取りだされたのは布張りのパスケースだ。はい、と手渡されたそれを裏返すと、切りくちの斜めな幼い紙切れが入れられていた。つたない文字は紙いっぱいに「めんきょしょう」と紡いでいる(「き」は鏡文字だった)。納得した。
「そっか、幼稚園の子にもらったんだ」
 満足そうな笑顔でうなずくゴン。彼を見あげる自分がどんな顔をしているのか、まったくわからない。
 心臓が痛かった。

 ゴンはにこにこしたままパスケースをリュックサックに戻した。それを背負わずに、マウンテンバイクのハンドルに引っかける。ハンドルが肩のようにリュックサックを背負った。
「あやこちゃん」
 じっと観察していたためにすぐに声がでなかった。かわりにぱっと顔をあげた。
「おうちどこ?」
「、動物病院のそば」
「山の下?」
「うん」
 再びぱっと咲いた笑顔に困惑する。(よく笑うなぁ、)ゴンはマウンテンバイクにまたがるとうしろを示して言った。「二人乗りしよう」
「え、」
 普通の自転車ではない、マウンテンバイクだ。二人乗りをするとなると後輪の金具に足をかけ立っていなければならない。慣れていないわけではなかったが、問題は履いているパンプスだった。
「立てないよ、わたし」
 彼はこちらの足を見、少し考えてからくちを開いた。
「座って。ぼくが立つから」
 導かれるままサドルに座ると、地に足がつかなかった。(わ、)彼の背が高いことを再認識する。大丈夫と聞く彼におうむ返しして、彼はペダルに足をかけた。あわてて目の前の灰色のティシャツにすがった。少しの汗のにおいを感じた時にはマウンテンバイクが滑りだしていて、まったく揺らがない安定感に感心した。その時車体がわずかに跳ねる。幼稚園の敷地から歩道に出たのだ。右を見ると壱メートル程度の距離をあいだに乗用車が走っていた。カタカタと聞こえるフレームの揺れと、通りすぎてゆく風の音に目を閉じた。ゴンは無言であったが、ペダルの軋みが時たま彼を主張した。

「あやこちゃん!」
 はっと開眼してなに、と声を張る。届いたかわからなかったが、彼は答えた。
「左。もうちょっとで林を抜けるよ」
 彼の言葉のまま左をむく。瞬間、林が開けた。呼吸が止まる。
 海は橙色だった。最後の輝きをめいっぱい遠くまでのばす太陽。しがみつく灰色のティシャツも橙色だった。ハンドルを握る、たくましい腕も。前方を窺えばアスファルトの坂道もすべて染まっていた。きっとわたしの服も、髪も。——
 きれいだと感嘆する声も出なかった。ただ、泣いてしまいそうだった。

 フェードアウトの間もなく夕陽は林に切り替わった。ゴンがきれいだったねと言う。わたしは唖だった。



090628
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