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 目蓋が重い。かすむ世界はユメかウツツか、定かではない。騒ぐのは心か、蠢くのは本能か、疼くのは魂か――敵意が世界か?
 なにが正しいのだろう。なにが嘘なのだろう。自分自身を見つけられないまま歩けるはずもない。睫毛の触れる先さえ見えぬ。黒が犇めく黒。そして唯一の熱。目を焼く、炎。これが真実だった。

 ひとつ息を吐く。抜けていく全身のちからにまかせ、幕を、おろした。

それがすべてだった


 眠るのはいつぶりだったろう。長く覚えがない。倦怠感はおそらく久しい休息にすがりつく身体の抵抗だ。ただなにか、いやな夢を見たように思う。腹を掻き混ぜられたかのような嘔気が証拠だった。こめかみと背筋には冷たい汗。……水中の視界。(泣くなど、それこそいつぶりだ)まばたきをするとつるりとしずくが滑り落ちた。それきりだった。
 空虚は凶器だ。息の詰まるほど濃い酸素が首を絞めていく。なによりも求めるものはなにもかもを絶する炎。すべてを灰に、世界を終わりに。恐ろしくはその感情。その感情こそが、狂気で、そしておのれだった。
(狂気は殺された。狂気は殺された。狂気は殺された。凶器に殺された)脳裡を輝きがちらつく。この記憶はなんだ。(確かなことは、この憎悪だけ)――
 気づけば爪を噛んでいた。歯に残るきりきりとした感覚が確かな現実だった。目を閉じ、開き、再び閉じる。脳裡をかすめ心を抉るなにかをさぐる。(すり減った魂はもう戻らぬ。おのれが消えてなくなるのはまだ先のことか、今日かさえ、わからない)ふと指先に感触を覚えたのは遠い誰かの記憶。なにをもって自分に眠っているのかなど知り得るはずもない、記憶。

(おれは、だれだ)

 ――嫌悪の色をした頭を抱えてその子どもは地の上を転がっていた。呻き声をあげ時たま顔をあげて咆哮しようとする身体を、震えて抑えつける。のぞいた白い犬歯は鋭く光って溢れた唾液をつたらせた。過呼吸にも見える荒い息は今にもこと切れてしまいそうな、危うさととなりあわせにあった。
 おれは知っている。
 腹を破って這いだしそうなそれは狂気だ。おぞましい姿の獣だ。なにより恐ろしいものはそれただひとつ、制止を振りきりおもてに現れそうな、もうひとつの自分自身。すべて知っている。
 奴はおれを恐れて、殺したのだから。

(あの眼を覚えている。おれを見とめ気づく前に、その躯の奥の奥に座る無意識が許さずとした本能の眼。きんと張り詰め一心におれを射ぬいた凶器の眼。感情すら与えられずに灯された炎はこの皮膚を焼き肉を焼き狂気を焼き尽くした。眼球の裏までぬらぬらと炎に舐められすえた匂いが鼻をつき、ああ、おれは焼き殺されたのだ。おれを生んだそのぬしに)

 そう、これが真実だった。おれは炭になり灰になり思念になったのだ。それがなぜいまここに存在しているのか。
 覚えていることはただひとつ。思念となったおれを見おろした、一頭の狼の眼に宿る確かな狂気だけである。今も体躯に残るこの感触は、初めて触れられた体温だ。
 ただひとつ忠誠の愛を誓った体温だ。



101013
とある青年の思念から生まれた存在の独白
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