起きているのか眠っているのか、定かではない耳で、携帯電話の着信音を聞いた気がした。
目が覚めたのはいつものとおりにベッドの上だった。上体を起こして背筋をのばすと、適度にこわばりがとけ、スッキリとした感覚が残る。ベッドからおりてカーテンを開くと、空はよく晴れていた。この北の地も、ようやく春らしい春をむかえたのだろう。しばらく外を眺めてから部屋を振り返ると、枕元でチカッと光が点滅した。携帯電話だ。
ベッドに腰かけて手に取り、二つ折りのそれを開く。ディスプレイには不在着信と、メールの受信を知らせる二つのマークが表示されていた。見るとどちらも午前四時ごろの、中越からのものだった。
現在は午前六時半。伊井はひとつ首をかしげて、着信履歴を選択すると、発信ボタンを押した。
コール音は七度目で途切れた。
「——はい」
低く掠れた、それでいてあたたかな声が答える。中越だ。伊井はどこか安心して、一言「おん」とうなずいた。電波のむこうから中越の笑う声が返ってくる。
「おん、て。どうしたんですか、急に」
「どうって……」
おまえが連絡したんやろ、と言いかけて、伊井はくちを閉じた。
中越は時たま、不安や恐怖でたまらなくなって、そういう時は伊井の声が聞きたくなるのだという。しかし中越自身はその「くせ」に引け目を感じているようだった。以前に「くせ」が起きた翌日、うつむいたままごめんなさいと言って、情けない、とこぼしていたことを、伊井はボンヤリと思いだす。
午前四時のメールには、『寝ていますか』と、一文だけ綴られていた。無機質なブロック体の六文字であるのに、なんて弱弱しいのかと思った。半年前、本心はもしかしたら伊井を利用しているのかもしれないと言って泣いたあの時と同じような顔をして、打ったのだろう。自分に触れたくて、それでも拳をとけずに。
もし午前四時の連絡が「それ」であるのなら、なにも言わないほうがいいのかもしれない。伊井は少し逡巡して、代わりに言った。
「会いたい」
「……え」
中越がうろたえたのがわかった。当然だ。伊井は受動的な性格で、自ら進んで意思を示すことなどほとんどない。中越もそれを知っていた。たとえ欲求があっても、それを発信することなどなかった。会話をしていてふとこぼしてしまうというのが、常であったのだ。
「伊井さん?」
「おん」
「どうか、したんですか」
「……どうも、しないよ」
なあ、今日、ひま? 続けて言うと、中越はしばし間を置いて、すみませんと言った。これも珍しいことだった。中越はいつも、どのタイミングで漏らされるかわからない伊井の希少な我儘をすべて受け止められるようにしている。それは「伊井に助けられた」という中越なりの「お返し」であった。
「今日……今日だけ、ごめんなさい」
「え、いや、ええよ、別に。用事あんのやろ?」
「……母の、つきあいで。今、もう、外にいるんです」
母のつきあい。伊井は少しだけうれしくなる。母子のあいだで長く続いていたすれ違いも、ようやく回復してきているということなのだろう。
「うん、よかった。じゃあ、もう切るな」
「いや、切らなくてもいいです」
自然と柔らかくなった伊井の声に、中越の慌てた声が重なった。
「まだ移動中なんで、話してましょう。……それでお詫びになれば」
あと正直、移動だけで四時間近くかかるんです。と、不満そうな低い声がつけ足された。伊井は思わず苦笑した。
「お母さんのつきあいってなに」
問いながら腰かけていたベッドの奥に居場所を移して、壁に寄りかかる。脚をのばすと足首から先がはみ出てしまって、伊井は三角座りに体勢を変えた。
「華道の発表会というか、講演会というか。よく知らない」
「テキトーやなぁ」
「興味がないので」
嘘をついているなぁ。伊井の口角は自然とあがって、溢れる笑みを抑えるためにゆっくり息を吐いた。卒業式の日の晩に中越から贈られたいけばなは、しっかりと携帯電話のデータフォルダに画像保存されて、待ち受け画面にも鎮座している。
「……おみやげ、楽しみにしてる」
ええー、観光地に行くわけじゃないんですから。笑い混じりの声が、耳をくすぐった。
「じゃあ、うん、いろんなもの、見てきてや」
「いろんなって、花しかないですよ」
「花でいい。また、ナカゴエが活けたのほしい」
「……まあ、努力します」
「ふはっ」
やっぱり嘘だった。小さな優越感に浸りながら、いつか贈られる花をいとしく思う。
その時、家のチャイムが鳴った。兄が仕事から帰ってきたのだ。
「ああ、すぐるが帰ってきた。ちょお待ってて、あいつまた鍵忘れてん」
兄は鍵や財布を忘れて歩くのが得意であったから、きっと昨日も忘れて出てしまったのだろう。伊井はなんとなく不満をいだいて、ベッドから立ちあがる。普段は気にしないけれど、今日じゃなくたって。
「はは、おかまいなく」
中越の笑い声を聞いてから携帯電話をベッドに残し、伊井は部屋を出た。
階段の目の前が玄関だ。小走りで階段をくだり、その勢いのまま三和土のサンダルを履いて鍵を開ける。
「おかえり」
言いながら玄関扉のバーハンドルを押すと、外からぐんと強いちからで引かれた。驚いて手を離した瞬間に扉が大きく開き、ぎゅうと抱きすくめられた。一息に視界が暗くなる。(酔って、)
「——ただいま」
耳元で聞き慣れた声が言う。伊井はパッと目を開き顔をあげた。
「——みつ!?」
「おはようございます」
中越だ。声も、笑顔も、背中にまわされた腕も、たしかに中越のものだった。
「え、なん、お母さんは?」
「いませんよ」
「発表会……」
「ありませんよ」
「え?」
「うん」
にっこりとなついた笑みで中越がうなずいた。驚いた表情ままの伊井の、薄く開いた唇につんとキスをする。
「伊井さん、エイプリルフールって知ってます?」
「うその日……あ?」
「ははっ」
中越の腕が伊井の細身を抱きしめた。
「どこから嘘か、わかります?」