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Its name is a bolt from the blue!

 頭痛がするほど空は青い。眉をしかめて視線をおろすと、小さなつぼみをつけた桜の木があった。この地の開花はいつだって遅い。次にようやく窓の外から教室内へ顔をむけた。騒がしくはないが静かでもない。賑やか、がいちばん適した表現であったが、この時期ですでに賑やかであるのはいささか不自然ではないかと中越は思う。わざわざ友人と同じ学校に進学するということがあるのだろうか。それとも名前を覚えている程度の、偶然に進学先が同じであった知り合いにでも声をかけるのだろうか。まして中越には、『入学二日目で新しく友だちができました』など考えられもしなかった。

 前の引き戸が開いた。さわさわと談笑で埋もれていた教室から、スッと声が遠のいた。それぞれが椅子を引き、腰を黒板にむけ、体の傾く者はいなかった。中越も自然とそうしていた。
 教室に入ってきたのは黒いジャージ姿の老いた教師だった。老いたといってもその背筋はぴんとのびていて、彼はしっかりとした足で教壇にあがった。白いスニーカーがキュッと音をたてた。教師は抱えていた冊子の束を教卓の中央に置き、そのまま褪せた色の教卓のふちに両腕を広げて手をついた。前かがみの姿勢のまま顔をあげ、優しげな目元をより細めて笑う。数人の生徒がほほ笑む気配がした。
「おはよう。入学おめでとう」
 落ち着いた雰囲気の声だ。白髪まじりの灰色の髪を揺らして教師は体を起こし、新品のチョークを手に黒板にむく。大きな背中に見えた。
 カツカツと筆圧の高そうな音が止むと、深緑色の黒板の、中央からやや右にずれたところに『佐能裕二』と書かれていた。右あがりだが、整った字をしていた。
「サノウユウジ、といいます。一年D組の担任になりましたので、よろしく」
 教室のどこからか、よろしく父さん先生、と男子の声があがった。教室は一息に、思わずといった笑いで溢れた。
「こら、エスカレーター組。早早にやらかすな」
 エスカレーター組。ここでようやく気づいた。
 この高校の敷地の裏には、同じ名前の私立中学校がある。明確なシステムなっておらずとも、中高一貫校と同じようなものなのであろう。
 入学二日目の談笑も、教師を見て笑った生徒も、なにも不自然ではなかったのだ。中越のように、談笑に参加していないものも少なからずいた。そういった者が、おそらくほかの中学校から入学した生徒なのだ。逆に、佐能をすでに知っていた様子で笑った生徒は、裏の中学校からのエスカレーター(内部受験)組なのだろう。
「まだ初日だからな、おれもまだ優しいぞ」
 最後の列——中越のいる窓際の列だ——の先頭に人数分の冊子を渡して、笑って佐能は言った。クスクスと笑い声が絶えない。
「えー、今日は入学おめでとう、ということでレクリェーションだけの午後放課だ。そんなわけでこれから体育館に移動するから、起立」
 教室には鍵をかけるから、貴重品は持たなくていいぞォ、と佐能が思い出したようにつけ足した。ずいぶんといい加減な連絡だ。とうとう教室の全員が笑った。こらえるように静かに笑いながら受けとった手作りらしい冊子には、『私立やまあい高校MAP』と印字されていた。一冊を抜いて、残りの一冊を後ろの席の生徒に回した。

 小体育館の空気は少しヒヤリとしていた。
 集合した生徒は一年生全員、二百七十余名。そのうちおそらく半分がエスカレーター組であろうから、いまこのざわつきにも中越は納得できた。
 しかし途端に、声が引いた。列の後ろについてきたために、前方でなにが起こっているのか中越にはわからなかったが、おおよそ教師に注意でもされたのだろうと思っていた。
「一年生のみなさん、入学おめでとうございます」
 だから、唐突なマイク越しの声に驚いた。若い男の声だった。
 左目にかかる長い前髪をよけ、少し首をのばすと、どうやら上級生が話していることがわかった。

 生徒会副会長の言うことには、今日のレクリェーションで教室案内から委員会紹介、部活紹介まで、すべてまとめて行うらしい。これまた詰めこんだなぁと、中越は他人事のように思った。
 一年生を数人ずつのグループに分け、案内を二年生の係が、それぞれの紹介を残りの二年生と、少数の三年生がするという。(三年生は係の者以外は家庭学習日だそうだ)
 中越の目の前で次次と自主的にグループができていく。エスカレーター組なのだろう。知り合いのいない中越は、とりあえず、困ったなあと考えておいた。とりわけ困ったことでもなかったのだが。中越は単独行動を気楽としていたし、無理に組まされたグループで気を遣うのもごめんだった。人づきあいが苦手だったからだ。
 それでもふと寂しく思ったのは、エスカレーター組ではない生徒も、自主的にグループをつくり始めたからだろう。
(これは本当に困った)
 ぎこちないグループに入るのも、かといって案内の上級生とマンツーマンになるのも、いやだった。そして自分の苦手を克服しようとする甲斐性もなかった。中越はさり気なく生徒の塊から抜けて、体育館の端でほかの教師と並んでいた佐能に話しかけた。「すいません、お手洗いどこですか」

 うまく逃げられた。このままどこかでやりすごして、時間になったら教室に戻ろう。
 ほの明るい廊下を歩きながら中越はこの先数時間のことを考えた。冊子があるから案内はいらないし、委員会や部活に所属する気もない。適当な学校生活を適当に過ごすことができれば、なんら問題はないのだ。友人だって、進んでつくるものではない。適当な時期になれば適当な人物と交流することになるだろうと、考えていた。
 かどをまがると、廊下の広いスペースにわたってなんらかの展示がされていた。興味半分、暇つぶし半分の気持ちで近寄ってみると、多くの盾が並んでいた。
(作文なんかの賞かな)
 印字を読んでみると、やはり個人の読書感想文やエッセー、俳句などのコンテストの結果で、いくつか運動部以外のスポーツの賞もまじっていた。それもみな、ここ二三年のものだ。ゆっくり追って進んでいくと、ひとつ目についた名前があった。
(この人、さっきもいた)
 数歩分戻ると、果たしてその名前があった。二年前の日付で、『陸上競技新人大会一位』となっている。二年前の盾があるということは、現在は三年生なのだろう。(下に記された種目名と部門名は字が小さくて見えなかったが、顔を近づけてまで気になることでもなかったので潔く諦めた)そして先ほどの盾には、同じ年で『秋季陸上競技大会一位』となっていた。一年生のうちに二つの大会で優勝したのか、と感心する。自分は運動が苦手であったから、なおさらだった。
(これ、なんて読むんだろう。そもそも男? 女?)
 見たことのない名字と、見なれた漢字に似ている字が並んでいた。読みがわからないこともあって、性別もわからない。
(……まあ、関係ないか)
 しかし、陸上競技の結果ならば、ふつう陸上部に飾るものではないのだろうか。疑問に思いはしたが、さほど興味もなかった。翌年から同じ名前は見つからず、気にもとめなかった。

 音楽室や化学実験室などの、特別室のある棟には行けない。案内係に連れられた同級生たちがのんびりと見て回っているだろう。女子トイレの個室に入って、中越は冊子をめくった。
 いまいるのが、二階の、北階段のそばにあるトイレ。この二階には、職員室、保健室、図書館と、委員会の部屋がある。一階には先ほどまで立っていた小体育館と、そこに隣接する大体育館に繋がる渡り廊下、また一部の運動部の部室と、生徒玄関への通り道であるロッカールームがあった。そして三階から五階までが教室と演習室——複数クラス合同の授業や、放課後は文化系の部室として使われているそうだ——になっている。一年生の教室は五階だ。問題の特別室のある棟は、北階段とは正反対側の、中央階段の近くから各階ごとに繋がっているらしい。
(移動に北階段も使うだろうし、いまはどの教室にも鍵がかかってるし)
 隠れ場所を見つけられない。中越は一つため息をついて、個室の戸をあけた。
 隠れる場所がなくても、さすがに三時間以上トイレになどいたくなかった。

 さも『ちょっとグループを離れて用を足してきました』という顔で数人組のグループとすれ違い、中越は中央階段を降りた。めあてはグラウンドだ。どうやら部室が校舎内にない運動部もあるらしく、その案内に外へ行くグループも出始めているらしい。(数分前にすれ違った案内係の言葉を小耳にはさんだのだった)
 外に出れば、校舎の陰なりプールの陰なり、じっとしていられる場所はたくさんあるだろう。中越は上履きをローファーに替え、太陽の光があふれる外に出た。

 空が晴れていると、やはり肌寒い。少しも曇る様子のない空をちらと見て、「なにもこんな日に晴れなくても」と心中悪態をついた。
 穏やかな空はまだ高い。真冬ほどではなくとも、やはりこの地の春は寒いのだ。
 テニスコートを尻目に校舎裏のグラウンドにまわりこんで、中越は息を吐いた。受験時の見学会に一度も赴かなかった中越にとって、このグラウンドに立つのは初めてだった。
(ひろい——)
 素直な感想が頭を占めた。
 教室は、グラウンドに面している。窓際の後ろから二番目が、中越の席だった。昨日も今日も、そこからグラウンドを見ていたはずなのに、いざ土の上に立ってみると感覚がまったく違った。見おろすより広く、そして暖かく感じた。
 教室から見た風景を思い出して、そういえば桜の木があったと気づいた。グラウンドを見渡すと、本校舎に近い芝生に大きな桜の木があるのがわかる。
 この気温で建物の陰にいては寒いだろう。
 中越は、桜の大木に足をむけた。

 つぼみは硬いままだというのに、木は全身で桜色に発光しているようだった。幹が薄く色をまとうのだろうか。木の陰にあった花壇のふちに腰かけ、漠然と桜の枝先を見あげた。おそらく、いま座っているここは自分の席のすぐ下になるのだろう。別の角度から見た桜は、より大きく見えた。
 空は相変わらず青い。頭痛は治まっていた。
 ぼんやりと考えることが趣味だった。考える、というより、想像するといったほうが正しいかもしれない。——たとえばこの桜の樹齢は。植えたのは誰か。いつ植えられたのか。なぜ一本だけなのか。……こういったほのかな疑問に対して勝手に答えを想像することが、中越は楽しかった。
(桜といったら、ベタに殺人事件だよな。遠い昔に殺人を犯した生徒なんかが、死体を埋めて、その上に植樹? いやいっそ、狂気じみた熱心な園芸委員が肥料のために人殺しかな。……待て、それ以前に生き物の死体って養分になるわけ? 腐るだろうし臭いだろうし、いいところなんてない気がする。『そういう』桜って、本当にきれいに咲くのだろうか。だいたい実際に死体を埋めた犯人なんていたっけ?)
 まあ、普通に考えて、いつだかの卒業生が記念に植えていったんだろうな、と考え直して、中越はひそやかに口角をあげた。ばかばかしいことを真剣に考えれば考えるほど、現実の単純さとのギャップがおもしろおかしい。答えなどわかりきっていることに別の答えを用意するのは、中越が幼いころからの遊びだった。考えるということが、自分自身を建てる柱の一つになっていた。
 普通に過ごしていればどうだっていいような疑問をつまみあげて答えをつくっていれば、時間など足早に過ぎていくことを知っている。だから中越は一つの想像が完結するたびにあたりを見まわして次のテーマを探した。空が高くなればなるほど濃い青になる理由、校舎の二階以上の窓に格子がはまっている理由、風に意思があったとしたら——とりとめもなくテーマを見つけてはくだらないことを想像し続けた。太陽はゆっくりと頂点へむかっていた。

 グラウンドの地面を畑と同じ意味合いで土と呼んでいいのか否かと考えた時には、すでに腕時計が十一時半を示していた。一年生のみのグループが歩き始めていていることから、一通りの案内が終わって、自由行動にでもなっているのだろう。あと三十分で終礼だ。なにより、これで堂堂と動き回れる。(といっても、校舎内や部活になにも興味がない中越に、いま立ちあがる理由はなかった)
 太陽の光が暖かい。空気の冷えも失せる時間が近づいているのだ。
 いっそのこと眠ってしまおうか、と立てたひざに顔をうずめた時だった。
「——どうしてん?」
 突然の他人の声に驚いて顔をあげた。さらに驚いて、喉がひくついた。
「迷子か」
 桜の木の陰からこちらへ歩んでくる女生徒に、中越は首を横に振った。咄嗟のことで声がつかえていた。
 その女生徒は背が高かった。ハッキリと暗い影から出てくると、黒いショートカットがコーヒーブラウンに色を変えて、顔から胸元の白い肌が映えた。コントラストに圧倒された。その立ち姿だけで息をのんで、女生徒がそれは端麗な顔だちをしているということに気づくまで数秒を要したほどだった。
 中越の正面までやって来た女生徒は、ひざを折って中越と同じ目線に屈んだ。
 瞳に光が散らばっている。
「一年生やろ、」
 落ち着いた音階の、舌足らずな声はこの地では馴染みのないイントネーションをしていた。うなずくと、女生徒は「誰か待ってんの」と足してたずねてきた。
「あ、いえ、違います」
 ようやくしぼりだせた声は動揺したままだった。情けない。
 中越が言葉を話すと、女生徒はポーカーフェイスにちらりと笑みを見せた。口元の小さなほくろが淑やかに色っぽい。
「ふは、キンチョウすな新入生。となり座ってもええ?」
 はい、と思わず中越が答えたのと同時に女生徒は腰をあげ、中越の左に座った。座るために折ったひざを、腰かけてすぐにのばしたのを見て、ああ、脚が長いんだと頭のすみに感心した。黒いタイツをまとった脚は、自分と違ってすらりと細い。
「学校探検、つまんなかったんか」
「え?」
 無意識に見詰めていた女生徒のひざがしらから顔へ眼を移すと、わずかに目尻のつった目(きつい印象は受けない。きれいなかたちといったほうがうなずけるようなつり目だ)が中越を見ていた。
「やって、暇そうやったで」
「え、と。……さぼってたんです」
「え」
 しまったと思った時には遅かった。
「なに、おまえ、入学早早さぼったんか」
「あ……はい」
 どうにでもなれと肯定すると、女生徒は愉快そうにけたけた笑った。中越は多少なり驚いた。
「大物やなあ」
 ふう、と息を吐いて、女生徒はくすくすと余韻を笑う。
「ええなあ。おれ、悪いと思わんよ」
 学校なんて、過ごしてりゃ慣れるもんなあ。女生徒は続けた。
 おれという一人称になぜか違和感はなかった。声が普通の女子より低いからだろうかと中越はぼんやり思う。
「おれな、イイって名前なん。イトウさんのイに、イドのイで、伊井」
「……伊井、先輩」
 どこかで知っている名前のように思った。しかし思い出そうとする中越の思考を伊井の声が遮る。
「センパイなんて、つけんといてな。おれ、アタマ悪いんで。なんにも尊敬されるようなことない」
「えっ。……えーと、じゃあ……伊井、さん?」
「おん」
 恐る恐るといった様子で中越が言うと、伊井は一つにこりとしてうなずいた。目を細めると、長い睫毛がきゅっと目立った。
「覚えといてな。おれおまえのことオモシロイし、もっと話したい」
「あ……りがとう、ございます」
「……なん。まだ緊張してん」
 伊井が困ったように笑う。たしかに緊張もしていたが(なにせ出会ったこともない美人が目の前にいるのだ)、中越は、弁解しなければ、と思った。あなたに話しかけられたから臆しているわけではありません、と。
「あ、……えっと。人見知りなんです」
「ああ……そっか、ごめんなぁ」
「いえ、そういうことじゃなくて」
「え?」
 こてっと首をかしげる伊井の髪が流れる。自分を見詰める二つの目から視線を逸らして、中越がくちを開いた。
「伊井さん、が、悪いんじゃなくて……わたしが、その、人と話すのが苦手なだけですから」
「……」
 伊井は首をかしげたままだった。幾度かぱちぱちまばたきをして、再び笑った。
「ふは、イイコなんなぁ。……えっと、そう、おまえの名前まだ聞いてへん」
「あ、はい、中越です。チュウエツって書いて、ナカゴエ」
「へえ。カッコイイ名前なぁ」
 ナカゴエな、と伊井はたしかめるように呟いた。中越は迷って、結局うなずかなかった。

 伊井に、校舎も回らずになにをしていたのかと聞かれ、中越は少しだけ憂鬱な気持ちで『考える、想像する』という趣味について話した。(いままで、家族すら、楽しみを理解してくれた者はいなかった)
「——へぇー。なん、おもしろいの?」
 中越は薄く口唇を開けた。
 伊井の返答は、予想していた言葉であったにもかかわらず、声の表情が異なっていた。呆れる風でもあざける風でもなく、ただ純粋に興味があるような顔で、伊井は「おもしろいの」と質問したのだ。
「……わたしは、おもしろいです」
 中越の乾いた声を、伊井はうなずいて聞いている。
「空の色とか、雪の結晶の種類とか、そういうのを考えるのが、楽しいんです」
「おん」
 声に出してうなずいて、伊井はその続きを羨むようにくちにした。
「中越みたいに世界を見れたら、きっと楽しい」
 息が止まった。
 きらきらと光る言葉が、一文字ひと文字、中越の身体に沁みわたる。肌が粟だった。息が苦しくて、泣きそうだと、思った。
「そ、」
 思わず溢れた声が、震える。
「そんなこと、言われたの……初めてです」
 中越がうつむく。伊井は目を細めた。
「おん」
「ずっと……誰も、……誰もわかってくれなくて」
「おん」
「……こ、こんなだから、友だちも、いないし」
「おん」
「……」
 伊井は中越の言うことにうなずくだけだった。
 中越は、こんなに声に出して話すのはいつぶりだろうと、頭の端で考えていた。
「……うれしい、です」
「おん。よかった」
 柔らかい声に中越が顔をあげた。伊井は満足そうにほほ笑んでいた。無性に恥ずかしくなって再び眼を伏せると、腕時計の針が五十分を指していた。
(……『考えて』るより、時間は早く過ぎるんだ)
「あ……もう、そんな時間か」
 伊井が立ちあがり、中越はそれを眼で追った。(時計を覗かれたようだ。伊井の手首にはなにもない)
「じゃあ、また今度な。一年生は五階やし、中越も早く戻り」
 ばいばい、と白い手を振って、伊井は小走りに駆けて行った。
 挨拶の声も出なかったと中越が後悔するのは、伊井の姿が校舎のむこうに消えたころだった。

 五階の廊下には一年生がたむろしていた。どうやらまだ教室の鍵が開いていないらしい。一つ息を吐いて、中越はD組の前の壁に寄りかかった。校舎のなかはやっぱり暖かいなと、適当なことを思う。それでも頭から離れないのは、伊井の言葉だった。
 あの人は、どう思ってあのように言ったのだろう。もともと他人を広く肯定する性格なのだろうか。……それとも、根暗なこの性格を、本当に気に入ってくれたのだろうか。
(どちらにしても、不思議な人だな)
 想像すらできないものに出会うのは初めてだった。もやもやとしたものがみぞおちのあたりにあって、中越はその不可解なものの答えを知りたいと思う。
 そう深く浸っていたから、自分が呼ばれていると気づいたのはしばらく経ってからだった。
「——中越さん、」
 肩を叩かれてハッとする。
 声の主に視線を移すと、中越より頭一つ背の低い女生徒がはにかんだ。長い髪を後ろに流して、深い赤色のカチューシャをつけている。この顔には、見覚えがあった。
「えっと、……後ろの席の」
「そう! ふふ、吉垣っていうの。よろしくね」
 中越さんは、前の席だから覚えたの。吉垣が笑う。中越はぎこちなくうなずき、よろしくと返した。
「中越さんて、外部受験組……だよね?」
「ああ、うん」
「やっぱり。わたしもそうなの」
「……へえ」
 そっけない返事しかできない自分に嫌気がさす。それでも吉垣は話している。
「なにか、部活、入るの?」
「え、……わたし?」
 うん、と吉垣がうなずく。「バスケとか」
「いいや、入らないけど……なんでバスケ?」
「中越さん、背が高いから」
「いや、運動は苦手だし」
 吉垣は黒目がちの目を丸くしたが、中越の言葉に驚いた声を発したのは吉垣の声ではなかった。
「へえ、意外」
 低い声に中越と吉垣が振りむくと、一人の長身な男子生徒が立っていた。聞いたことのある声だった。
(あ)
 朝、佐能を『父さん先生』と呼んだ声だ。
「エスカレーターの」
「たしかにエスカレーター組だけど、おれは別に動く階段じゃねえぞ」
 吉垣がぱっと口元をおさえた。笑っている。
「なんだっけ、ナカゴエか。運動部入らねえの?」
「興味ない」
「ふぅん。背、高いのにもったいないな」
「そうだよね」
 笑いの治まった吉垣が同意した。そう言われても、と中越は思う。
「おれさ、……ああそうだ、おれ、木野村っての。ナカゴエとー……」
「吉垣」
「ヨシガキ。よろしく」
「よろしくね」
 小さく首を傾けて吉垣が笑う。首をかしげるのが癖なのだろうか。
 木野村が落ち着きなく眼を逸らした。
「おれさ、中学でバスケ部だったんだよ。高校もバスケ」
「はあ」
「だからさ、女子部のほうもけっこう知ってる。うちの学校は身長が足りないんだよ」
「だから、入れって?」
「いいや、入れとは言わないけど」
「……なにそれ」
 惜しいなあと思ったんだよ、と、木野村は心底残念そうに言った。直後に顔をあげて、「絶対、勧誘が来るぞ」といたずら小僧の顔で言う。吉垣もにこにことうなずいた。
 誰もかれも、ころころ表情を変える。中越は戸惑っていた。

 廊下の生徒数は減り始めていた。教師が鍵を開けて回っているのだろう。
「そうだ、木野村くん、内部受験組だったよね」
 吉垣がたずねた時、D組の扉が開けられた。のろのろと教室に入っていくクラスメイトたちを眺めながら、中越は吉垣の優しげな色の声に耳を傾けた。
「うん、まあ」
「ここの先生とか、先輩とか、……いろいろ教えてほしいな」
 木野村は無愛想にうなずいた。
(吉垣さん、意外と罪つくりだなあ。たぶん天然だろうけど)
 中越は二人の男女を眺めてなにも言わず、心の内に笑う。
「えっと、うん……そうだな、二つ上だったはずだから、いまは三年生だと思うけど」
「先輩?」
 吉垣が首をかしげる。木野村がああと答えた。
「うちの学校で有名っていうか……人気な、女の先輩がいるんだ。二人。二年生と、三年生じゃなかったかな」
「へえ。木野村君は三年生の先輩のほうが好きなの?」
「えっ?」
「いや、二人いるうちの、一人だけを教えてくれそうな感じだったから」
「あ、うん、いや。単に二年生のほうはよく知らないだけ」
 そっか、ごめんね。続けて、と吉垣がうながした。
 廊下の生徒は大半が教室に戻っている。
「男子にも女子にも人気なんだよ。背が高くて、すごく美人な」
 長身の美人。中越には心あたりがあった。そういえば学年を知らないな、とも思った。
「わあ、会ってみたい。今日はいなかったのかな」
(え?)
「今日は見なかったなあ。三年生はほとんど休みだしな」
「……」
 いなかった、のだろうか。『かの女』とは違うのだろうか。
「その先輩って、」
 しばらく無言だった中越の声に驚いたように、二人が中越を見た。
「名前は?」
「伊井先輩。下の名前はなんていうのかわかんねえ」
「……」
 いた。今日、その人はいた。
「中越さん、知り合いなの」
「え、いや……」
 中越は言葉を濁した。今日、本当に『伊井先輩』がいなかったのなら、中越の出会った『伊井さん』は、別人のはずだ。
 視線を逸らすと廊下の奥から歩いてくる佐能の姿が見えた。さり気なく二人を教室へうながし、自分もまた着席した。

 ショートホームルームでは数枚のプリントと教科書が配布された。ただ多く教科書を受け取ったのは外部受験組だけだった。一部の生徒は三四冊ほどしか渡されていない。そうすると、どうやら、一年D組の外部受験組はクラスの三分の二といったところのようだ。エスカレーター組は意外と少ない。
「明日から普通授業だからな。時間割、写し忘れるなよ」
 起立をしてから佐能が言った。軽く教室を見まわすと、教室前方の窓際の掲示板に時間割の表が貼り出されていた。
「それでは気をつけ、礼」
 さようなら、と声に出した生徒は少なかった。エスカレーター組だったのだろうか。(中越は無言で礼をした)

 時間割をメモにとって、スポーツバッグをかつぐ。教科書の詰まった重みが肩にショルダー・ストラップを食い込ませた。
(うわ、これ、エスカレーター組ずるくないか)
 予想以上の重みに驚きつつも、中越はポーカーフェイスでいまだ賑わう教室の出口へ進んだ。背後で吉垣がまた明日と言う。中越は振り返って、ぎこちなく、じゃあ、と返した。

 ロッカールームの床にバッグをおろして、昨日の入学式の後に受け取った鍵をポケットから取り出す。ロッカーの鍵だ。戸を開け、靴を履き替えて、なかにかけておいたパーカーを羽織った。丈の長い黒色のパーカーは、中越が昨年の春に買ったものだった。
 やまあい高校は、生徒の持ち物に対する校則が厳しくない。さすがに携帯電話や携帯ゲーム機、雑誌などは規制されているようだが、登下校での上着や外靴、鞄は自由に選択できた。
 スポーツバッグを肩にかけなおし、玄関口にむかう途中で、中越は木野村を見つけた。通路のわきで、壁に寄りかかっていた。
「よお」
 先に声をかけたのは木野村だった。制服のブレザーの下に赤いパーカーを重ねている。
「……おす」
 中越が答えると、木野村はくしゃっと笑った。そろいもそろってよく笑うものだ。
「帰んの」
「そりゃあ。え、帰んないの」
「F組のトモダチ待ってんの」
「へえ」
 じゃあ、ときり出し体のむきを変えると、木野村は片手をあげた。それを見てから足を前に出した。
「あ、ナカゴエ」
 数歩進むと背中で木野村が呼びかけ、中越は振り返った。
「なに」
「バスケ部入らないの」
「入らないよ」
「……吉垣って入ると思う?」
「……ナニソレ」
 薄く目を丸くしてみれば、木野村は極り悪そうに斜め下を見た。中越はつい笑った。
「おま、笑うなよ」
「口説いてみれば」
「えっ」
 次は木野村が目を丸くした。
「男子バスケ部の、マネージャーにでもなってくれるんじゃない」
 木野村がなにか言う前に、中越は背をむけた。

 玄関口から外に踏み出すと、高いところから降りかかる太陽の光で溢れていた。視界の明るさの変化に中越は顔をしかめ、何度かまばたきする。
(今日は風もないのか?)
 見える限りに雲はない。よくよく遠くを見れば白い綿が見えたが、夜まで流れてはこないのだろう。
 テニスコートを左に、校門への下り坂をゆっくり歩んだ。上着があるとそう寒くはない。目線をさげ、白い石畳の溝をたどって坂をおりる。遠くから踏切の警告音が聞こえている。脳裡の中心にはきらきら輝くつり目があった。そのすみで、花を手に正座する着物の女の背中があった。中越は舌打ちする。なぜ、いま、いやなものを考えたんだ。足元でたくさんの白い正方形が次次と目の端へ流れていく。眩暈がした。
 胸の悪さが眉間を寄せさせたその時に白色が途切れた。坂道の終わり。ふと立ち止まって、色褪せたアスファルトを見詰める。吐き気はまだ消えない。ゆらと体のむきを変え、右——桜の木が立ち並ぶ遊歩道がある——へ足を踏み出した。
 ふと顔をあげて、呼吸が止まった。足も止まった。
「来た」
 ベージュのスプリングコートを着た伊井がいた。
「——」声が出ない。
「待ってたんで」
 遅く終わったなぁ、一年生。伊井が目を細める。
「……教科書とか、時間割とか、あったんです」
「ああ、なるほど」
 中越はくちを閉じる。こんなことを言いたいんじゃない。
「しかし、背ぇ、高かったんやね」
「……はい」
「さっきは座ってたからわからんかったわ。小さくなってたもんなぁ」
「……」
 影が薄いだとか根暗だとか言われていたと中越は思い出す。思わず伊井から眼を逸らした。伊井は気にする様子もなく続けてくちを開く。
「なんぼあんの? 身長」
「百七十五、です」
 おれよか五センチ大きい。伊井がぱっと笑った。それを横目に見た中越は伊井にむき直った。
「いっつも女子の背の順おれがうしろやってん。おれよりおっきい子、はじめて」
 嬉しい、と言ってまた笑う。中越は戸惑っていた。
「あの、」
「ん?」
「どうして、わたしのこと待ってたんですか」
 わけもなく泣きそうだった。頭のなかはぐちゃぐちゃだ。優しい言葉むけられる笑顔きらきら光る瞳、すべてに脳がきしんだ。言葉を返すことも笑い返すことも見詰め返すことも、わからないというのに、どうすれば。
 うつむくと自分の影があった。濃い黒。褪せたアスファルトにしみこんでゆく。すると軽い足音が中越の前まで来て、止まった。中越の視界にローファーと細い足首が映った。
「いっしょに帰ろう」
 途端、頭を撫でられる。驚いて顔をあげても髪はかきまぜられた。
「伊井さ」「きれいな目、しとるね」
 伊井は笑った。

 遊歩道の桜もまだつぼみは硬く閉じられていた。
 並んで歩く伊井の横顔から目線を正面に戻し、中越は右手の甲で口元を隠す。頬が熱かった。
「……伊井さん」
「なに」
 体温を紛らわすように中越はくちを開いた。
「今日、なんの係だったんですか?」
 会話を、と考えて浮かんだのは、木野村と吉垣の会話だった。伊井が彼らの言う先輩なのかを知りたかった。
「ああ……おれな、べつに、係じゃなかってん」
「……え?」
「今日な、三年生は、係じゃなかったら来ぃへんのよ」
「知ってます」
 三年生なのか。やはりな、と中越は思う。
「けど、おれ、間違えてん」
「うん?」いまいち理解できなかった。伊井は中越の顔を見て、続ける。
「普通授業や思て、来てしもた」
「……じゃあ、今日いったいなにしてたんですか」
 そうなあ、伊井の瞳がくるんと左上にむいた。
「とりあえずなんま笑われた」
 そんで、と言葉が続く。
「係は充分いるから、帰るか散歩でもしてろ言われて、帰ってもつまらんからぶらぶらしててん。したっけグラウンドでカワゴエに会うて、」
「……伊井さん、わたし中越です」
「あ、ごめん。名前覚えるの苦手なん……」
「、ははっ」
 思わず笑ってしまった。伊井は両手で自分の頬をはさんで、ごめんとくり返した。中越が「笑ってすみません」と言うと、伊井は小さな声で恥ずかしいと呟いた。
「おれ、本当に頭悪いねん。ごめんな。ナカゴエな」
「いいですよ。また間違えられたら、また覚えてもらいます」
「言うなあ……」
 伊井が眉をさげて笑う。白い手がかたちよい輪郭から離れると、頬が桜色に上気していた。

 それからはとりとめのない会話ばかりだった。
 中越のクラスの担任が佐能だと知ると、伊井は『サノちゃん先生』はいい人だから、人生相談するなら今のうちと言った。(中越が「人生相談したんですか」と聞くと「してへん」と返された)
 友だちはできたかと聞かれて、中越は少し躊躇してから、吉垣と木野村のことを話した。部活に誘われたのを断ったことに伊井は「ええんよ。無理はしていいもんやない」とポツリと言った。中越はふとした興味で伊井に部活に所属しているのかをたずねたかったが、くちに出す前に伊井が別の話題を振ったので、かすかな疑問は静かに葬られた。
 伊井の話す言葉にはたびたびこの地の方言もまざった。それでも奇妙に感じないのは、全体の柔らかな雰囲気のせいかもしれないと中越は思った。

 横断歩道を四つ渡ったころ、まっすぐに続いていた遊歩道が途切れた。端まで来たのだ。
「家どっち?」
 伊井が中越にたずねる。山のほうですと答えると、伊井は一つうなずいた。
「おれ、逆やわ。じゃあここでな」
「、はい」
 またなと伊井が片手をあげて、また、と中越がぎこちなく返す。伊井はにこりと笑って背をむけた。中越はそれをぼんやりと見ていた。(こんなに喋ったの、いつぶりだろう)
 数歩離れたところで、伊井が振り返った。
「ナカゴエー、」
「はい」
 はっとして反射的に返事をする。
「言い忘れてたぁ。おまえ、笑った顔、めんこいなぁ」
「——は」
 じゃあなー、と言って、中越に背をむけて、伊井はそれきり振り返らなかった。
 中越は、しばらく立ちつくしていた。



100220
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