ふれるための指先が少しだけこわばったのは、呼吸をしていなかったからだ。
気づいたら息を止めていた。吸って、吐いて、その気配さえも耳障りになるような空間だった。はりつめた雰囲気のなかで湿度だけがたゆんでいるのは、ここが音楽室だからだろう。寒冷地の冬にしては潤ったこの部屋の、氷のように光を写すグランドピアノの椅子が、静かに軋む。唯一の気配に弾かれたように顔をあげた瞬間、一音が鳴った。
「……」
かの女の手元は見えなかった。かの女の顔も半分が隠れていた。貼りつけられた足の裏を剥がして、恐る恐る、歩む。扉からピアノまで、カーペットの床が音をたてることはなかった。
傍らに辿り着いたとき、かの女は白と黒を見つめたままで、つまりはうつむいていた。細い首の白さにめまいがした。
「おれな」
唐突に響いた声には少し驚いた。この空間で、妙に浮いていた。
「楽譜、読めへんの」
「……、」
「でもな、けっこう弾けんねんで」
「……」
「……」
静かに沈黙して、少し間を置いて、かの女はこちらを見あげた。顔を少しだけあげて、残りは目線だけで。「ナカゴエ」
「……、中越て、呼ばれんの久久ですね」
ようやく酸素を取り込んだ気がする。首の後ろがくらくらした。
「ウレシイか?」
「……いやですよ。他人行儀じゃないですか」
「へぇ。……ナカゴエ」
——距離の近づいた今でも、この人のことはまったく読めない。
「いやがらせですか?」
「ふは、」
くしゃ、と目元を歪ませたかの女の声が、舌足らずに動く。
「さそってんねん」
肩をつかんでくちづけたのは、思わず、だ。
唇が離れて、かの女はわたしの手を抜けてするりと立ちあがった。音をたてずに教室の奥へ行き、そして一脚の椅子を抱えて戻ってきた。椅子の脚が床につくゴトリという音で、わたしは棒から人に戻る。
かの女は腰を折って椅子のシートに手をついたまま、こちらを目で見て言った。
「料理できひんから、代わりに聴いて」
わたしはうながされるまま席についた。かの女もまたピアノの前に座った。一拍のあとに、音は滑りだした。——
優しい曲だった。柔らかな夢に誘うような、桜色の。
細い指を鍵盤から浮かせたかの女は席を立ち、わたしの目の前に来て一礼した。わたしは反射的に立ちあがりかの女が顔をあげるその瞬間に薄い肩を手のひらで包む。が、
「こら、」
くちもとを白い手におおわれた。かの女は笑っている。
「ふは、みつ、あかんよ。学校やで」
「……」
眉をしかめ眼で不満を訴えれば、かの女はなお笑った。今度は少し、困った様子で。やがて、子どもに諭すようにくちを開いた。
「いっしょ帰ろ。続きはそっから。な?」
一緒に帰る、というのは、二人のあいだでは、かの女の家へ行く、ということだった。かの女の先の言葉のとおりだった。……誘われていた。
ああ、いまわたしの目は丸くなっているのだろうなと思う。かの女の肩から手を離し、身体を離し、そうしたら口唇からかの女の手も離れた。つかつかと扉へ歩み寄り、傍らにかためて置かれた荷物のなかからかの女の灰色のコートを取って、かの女の肩にかけた。自分もミリタリーコートを着て、二人分のカバンを持つ。振り返ると、いまだコートに袖を通していないかの女がぽかんとして立っていた。近づいて手を取って後ろ手に引いて、そこでようやく、かの女はわたしの背中で再び笑った。
「なんやのん、そない急がなくても、おれ逃げへんよ」
「……時間がもったいないんです」
顔が熱い。
トロイメライ=夢見心地